私のチャレンジ人生

20191212-01

七転び八起きの原動力=『まずは実行!』


――――プラント(工場設備)洗浄をはじめ、荷物の運搬に使うパレット(荷台)を炭にリサイクルして製品化するなど、環境保全分野での独自の活躍が注目されているアオヤマエコシステム。起業から現在に至る道のりは決して平坦ではなかったが、創業者の青山章さんは団塊の世代ならではの価値観と行動主義を貫き、危機を乗り越えてきた。



人と同じ道は歩みたくない

19歳の時、単身1年8カ月の世界放浪の旅に出た。

出た、というと主体的になるが、実際はせざるを得なかったというのが事実らしい。大勢の人が同じ流れに乗って流れているのを見ると、つい反発したくなる。卒業生の90%以上が進学する高校にいる中で、いつのころからかアメリカへ行って勉強したいと思うようになり、カリフォルニア州にある大学に手紙を書く。2校から学費は免除するので来なさいとの返事をもらった。その中のカリフォルニア大学サンタバーバラ校に行くことに決め、9月入学でアルバイト先も見つけての準備をしていたが、当時美人が多く自由な雰囲気のある北欧がよく話題になっていた。

旅行社に北欧周りでもアメリカに入国できるかと聞いたところ、全く問題ないとの返事。(この返事が青山さんの人生を大きく変えた)。ビザはスウェーデンでとれるというので、すぐに予定を変更して北欧周りで行くことにした。横浜から船でナホトカへ渡り、シベリア鉄道でモスクワへ出て北欧へ向かった。当時は1ドル360円の固定相場の時代で、外貨持ち出しにも制限があった。用意できた旅費はわずか10万円。しかし、どうせ3,4か月後にはアメリカに行くのだから、それで十分と考えていた。

20191212-01 しかし、スウェーデンに着いて1か月後、アメリカ大使館へ行くと、他国(スウェーデン人ではない者)からアメリカへの入国には厳しい条件があると聞かされる。入学許可証だけではだめで、最低1年分の生活費を用意できないと無理ですといわれる。当時、日本とスウェーデンは学生運動が盛んで、アメリカは両国からの若者の入国を警戒していた。

頭が真っ白、目先が真っ黒になる。5年行ってくると大見えを切って出てきたのに、わずか数か月では格好悪くて帰れない。変な自尊心が、こんな場合でも働く。とにかく時間を稼がなければ。しかし、スウェーデンでアルバイトをするには、ワークパーミット(労働許可書)必要になる。若者が許可証をもらうには、学生書が必要である。しかしこれから入学する予定で、しかもスウェーデンでアルバイトなど全くする予定ではなかったので、学生書など持ち合わせていない。バイトができなければ、手持ちの10万円はみるみる無くなっていく。当時、スウェーデンは世界一物価が高い国だったのだ。

ユースホステルで寝泊まりしながら、とにかく考えた。パスポートに許可の印を押してもらわなければ、何も始まらない。どうして貰うか? スウェーデンが世界一物価が高いということは、それだけ景気がいいということで、ヨーロッパをはじめ、南欧の国々からもたくさんの学生がアルバイトに押し寄せている。許可書を発行している部署の混雑は凄しい。この混乱に乗じて書類出すしかない。サンタバーバラ校の入学許可書の日付を改ざんして、すでに入学しているように装い、申請書類と一緒にパスポートを出した。受付の女の子はさっと見て、許可のハンコを書類とパスポートに押してくれた。自分でも信じられなかった。

20191212-01





パスポートに押してもらった労働許可証







バイトはホテルの皿洗い。金がないのでキャンプ場に行きテントを借りて寝泊まりした。スウェーデンで3~4カ月アルバイトして旅費を稼ぎ、旅に出た。ヨーロッパをすべて回った。そのころのヨーロッパのヒッチハイカーの5割以上を日本人が占めていた。ヨーロッパでは、ヒッチハイクをする若者の出身国の割合で、国の元気さがわかるといわれている。パリ、ローマなどのユースでは日本人が7割を占めることもあった。ヨーロッパの冬は寒く、ヒッチハイカーには辛いので、冬はイスラエルに渡ってキブツ(農村共同体)で働いた。当時のキブツは、午前中働けば、居、食、住すべて提供してくれた。3か月キブツで過ごした後、イスタンブールに戻り、そこからインドまで、地域のバスを乗り継いで行った。せっかく勉強していた英語も全く役に立たなかった。

タイではバンコクからチェンマイまで、ヒッチハイクで4日かけて行ったこともある。当時はタイの農村では乗用車は走っておらず、材木を運ぶトラックしかなかったという。おそらく、バンコクからチェンマイまでヒッチハイクで行ったのは、青山さんが初めてだと思うと言っていた。そして、バンコクから船で日本へ戻った。

この旅は、「まず行動」というその後の青山さんの生き様を象徴している。

想定していた予定と全く違うことになったが、行き当たりばったりの風任せの旅で、死にそうな目にも何度もあっている中で、「行動さえ起こせば何とかなる。人間はそう簡単には死なない」ことを学んだ。

青山さんは、48(昭和23)年生まれのいわゆる“団塊の世代”で、高校の同級生は競争をくぐり抜けて9割以上が大学へ進学した。大学を出たら、就職にはまた競争が続いた。「定番」のコースを歩みたくないと感じていた。若い時に人とは違う体験をしたいと、当時人気の小田実の『何でも見てやろう』や五木寛之の『さらばモスクワ愚連隊』などの本の影響もあった。

団塊の世代は日々が競争。計画しているうちに社会が変わってしまうので「まずは行動」が身についていた。旅立ちにためらいはなかった。

日本に帰ってみたものの、何をしていいかわからず、とにかく東京へ出て、大学で勉強するかと決めた。そのころ日本政府は各県ごとにUテレビ局を設置することが決まり。滋賀県では「びわ湖放送」ができた。大学で情報関係の勉強をしていたこともあり、何とか報道の仕事に就きたいと、学業は放り投げ、当時設立直後のびわ湖放送に報道カメラマンとして潜り込んだ。「この仕事ならいろいろと社会との接点がありそうだ。レンズを通して社会を見てやろう!」との思いからだった。

ところが、最初の1年は面白かったが、2年目からは、祭りや季節ものの取材など、同じ仕事の繰り返しに嫌気がさした。「昨年の番組原稿を少し変えればそのまま流用できる」とさえ感じるようになり、3年間勤めて辞めた。



雑誌広告が人生の転機

放送局カメラマンの仕事を辞めて1年ほどたった時、喫茶店で見た週刊誌の広告が人生を変えた。海外旅行と同様に、退職にも計画性はなく、次の就職先は決めていなかった。しばらくは蓄えで暮らし、日々パチンコと喫茶店での休憩で過ごしていた。(ちなみに、その時結婚はしていた)。その喫茶店に人生の転機となる出来事が待っていた。 

アメリカから入ってきたばかりの「ピグ洗浄」という装置を販売するフランチャイズチェーン(FC)の募集が載っていた。ピグ洗浄とは、工場などの配管に樹脂製のボールを高圧の水や空気とともに送り込んで汚れを取る洗浄法の一種。配管が詰まれば細かく分解して洗うか廃棄するしかなかった当時としては、画期的な方法だった。

「これからは再利用の時代」

と、すぐにFC加盟を決めた。加盟金200万円を何とか工面して、29歳で起業した。

ところが、募集元は施工方法のノウハウがある程度はあっても、販売のノウハウや実績は全くなかった。いわゆる加盟金目的のビジネスだったのだ。工具や機械の名前も使い方も教えてもらえないまま、売り上げゼロの日々が続いた。

そこで同じようにFCに加盟した大阪と兵庫の業者に呼びかけ、注文を受けられるよう3社で情報・技術・機器を共有し、協力しあった。

仕事を始めて2カ月目に初めて仕事を受けることができ、さらに6カ月後には、黒い水が出るという新聞に載っていた水草津市役所に働きかけ、水道管のクリーニングの仕事をもらった。アルバイト社員と2人が中心となり、大阪、兵庫の同業者にも協力してもらい、昼間は道路を掘り、夜中に管を洗浄した。工事期間の1週間はほとんど寝ることもできなかったが、受注額は500万円と当時としては破格の売上額で、公的機関の仕事を受けたことが大きな自信になった。

そのころに日本にはリサイクルという意識がほとんどなく、企業の設備も配管類もトラブルになれば買い替えていた。物珍しさもあって、機器・配管等の延命技術は企業に受入れられ、以後、会社は順調に成長したが、創業25年目に存続の危機に瀕するできごとがあった。「工場の困りごと何でも解決します」の旗印を立て、配管クリーニング以外へ事業内容を拡大しようとした矢先のことだった。

20191212-01





配管洗浄の仕事を始めたころの青山
(写真右端)







経営幹部に裏切られ…

画期的な炭化装置を開発した企業の社長と知り合いになった。それは縦型の炭化炉で、最初の着火時のみエネルギーが必要で、横型のようにずっと燃やし続ける必要のない、省エネタイプで他になかった。そのころ山の間伐した木々の放置問題などに関心があったので、是非ビジネス化したいと考え、ダメモトでNEDO(新エネルギー・産業技術総合開発機構)の公募に応募したところ、幸運にも採択された。

当時の年間売り上げに近い投資が必要なこの計画に、銀行はもちろん、相談した人たちのほとんどが反対だったが、NEDOにも採択されて、産業廃棄物処理にも進出して企業が成長するチャンスは今しかないとばかりに推し進めた。産廃の扱いに関しては専門知識がなかったので困っていたところ、取引している産廃処理工場の工場長が是非参加させてくれとやってきたので、事業の発足と運営を任せた。1年間で工場を建設し、県の許可もとって稼働開始する計画であった。

始まって8か月を過ぎたころ、工場建設してもらっている企業の部長がやってきて、任せている元工場長が関係企業からリベートを要求していると言ってきた。許可取得も順調といっているが、確認した方がいいのではないかとアドバイスもされた。県に行って確認すると、まだ2回しか来ていない、ドアをノックしたような状態ですねと言われた。

工場も出来上がる、従業員も4名も雇用した。借入の返済も始まっている。なのに、許可が取れなければ、仕事は稼働できない。どうしたらいい?!

一人や数人でやっている時は、いつリセットしてもいいというような怖いものなさの強気があった。今回は借入金の多さも、雇用している人数からも、そうはいかない。行政や支援機関の相談センターに行っても、お金のことは無理ですねといわれるばかり。相談すると、撤退も選択肢の一つですなどと言われてしまう。投資金額から考えて、撤退は倒産に等しい。打開策はないかと模索するが、やはり借入返済をどうするかが頭の中にこびりついて離れない。

来る日も来る日ももがき苦しんでいる中で、青山さんは不思議な体験をした。大阪の中小機構に相談に行った時、やはりお金の相談は無理と言われてしまったのですが、住吉の商工会に弱小企業の経営者に非常に信頼が厚い人がいるので、その人に相談してみたらと言われた。早速翌日会いに行った。

商工会でその方にお会いし、今までの経過や、決算書などで説明した後、「私に何をしてほしいですか」と言われた。青山さんはすぐに銀行返済がなんとかできれば、と答えたところ、その方は、「わかりました。それは私が何とかしましょう。滋賀までここが終わっていくとなると、ちょっと遅くなりますが、それでもいいですか」と言われました。もちろん!

銀行との交渉はすべてやってやるから、本来の事業のことを考えなさい。そういわれると、来た時と打って変わって、帰りの電車の中では何かついていたものが落ちて、すがすがしいような気持に変わっていた。人に寄り添うとはこういうことだと、今になってよくわかるそうだ。

 結論から言うと、結局その方には一度も来ていただかなかった。住吉から帰ってから気持ちに余裕が出来、炭化システムが利用できる事業展開を集中して考えていたところ、ある産廃業者の話の中で、いま日本の工場でパレットがあふれていて問題になっていることを知った。

一般的に日本の機器類(特に電気製品)は海外の工場で部品製造し、それを日本に輸入して組み立て販売していた。すると、運搬のために荷物を載せる木製の廃パレットが大量に発生する。パレットは材質が粗悪で規格化もされていないため、再利用は難しい。今までは産業廃棄物対応で問題なかったのに、突然国が工場から出る木材を一般廃棄物にした為大問題となっていたのだ。早速、近くの大手空調設備企業の工場に確認に行くと、出来るならすぐにでもやってほしいと言われる。そこで廃パレットを有価で買い取り、出来た炭を工場が困っている脱臭や水処理に利用するために買ってもらうビジネスモデルを考案・展開した。

20191212-01 空調大手企業の工場の大量の廃パレットを引き受け、それから3カ月で約10社あまりと取引できるなど、事業を軌道に乗せることができた。さらに環境雑誌に紹介されたことで、東京から日本電気工業会が見学にも来た。

幹部社員の“裏切り”をきっかけで始めた炭化ビジネスだったが、もっと炭を工場で利用できるリサイクル商材を考えてくれと言われ、炭はアルミと結合させて水に入れると重金属除去に使えることが分かり、排水処理や工場内の水循環に役立つ高度な環境ビジネスとして、事業の可能性を広げることにもつながっている。

炭化リサイクルセンター         



20191212-01



 <水処理剤テラスト>
  今までの処理剤にない発想で製作した
  画期的処理剤で、特許も取得した





この水処理剤を開発したことで、青山さんは今までの設備メンテナンス企業から工場環境問題解決企業へ変身していく。

「人と同じ道は歩みたくない」

そんな青山さんならではのユニークな挑戦は終わることはない。



━おわり━ 

(取材・越智田)

 ※この記事は平成22年(2010年)5月27日から6月10日まで、毎日新聞滋賀版に連載された記事に、青山が加筆しました。